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寄稿・便り

ケープタウン エピソード

平野 耕吉(68075)

私は1973年から約2年半南ア ケープタウンに駐在しておりました。
一昨年41年振りにケープタウンを再訪しました。ヨハネスブルグより、約2時間でケープタウン空港に到着。先ず空港の変わり振りに驚きました。空港は世界の大都市の国際空港そのもので、40余年まえの空港(国際空港ではあったが)の面影は全くありません。又シティセンター迄の道路も、当時は交通量は少なくゆったりと運転したものだが、今は支線が張り巡らされて高速化し交通量も先進国の大都市並みとなっていた。シティセンターは既に大都市化しており殆ど当時のケープタウンの街並みは消えていました。

センターから北の方へ行くと、当時は荷役クレーンと鉄道線が敷かれた大きなドックヤードがあり貨物船、漁船などが接岸し、荷役をする多くの黒人労働者が屯するケープタウン港があった。当時は仕事の関係でほとんど毎日のようにこの港に通ったものです。しかしそのドックヤードはどこにも見えず、黒人労働者の姿も見えません。そこには米国西海岸にあるような賑やかな素晴らしいウォーターフロントが開けており、観光客で込み合う正に国際都市でした。又世界のブランド専門店を抱える大きなショッピングモールに、大小の洗練されたレストランが並んでおり、食欲をそそる香りが充満し楽しさと豊かさを感じとることが出来る一大変容の場所と化していました。その港をまさに護るように背後に聳えるのはケープタウンの象徴であるテーブル・マウンテンだが、その山を眺めやっと昔のケープに戻ることができたようです。その山の端、強固な山肌は変わらず威風堂々としており、40余年前のケープタウンエピソードを想いださせてくれました。

40余年前のケープタウン・ドックヤード
40余年前のケープタウン・ドックヤード

40年前頃は、まだ日本では遠洋漁業が盛んな頃でケープタウン沖でも底魚、マグロ、ズワイガニ漁に日本より出漁していました。1973年第一次石油危機(オイルショック)が勃発し原油供給が急逼迫し漁業も多大の影響を受けた。そのような中、ズワイガニ操業中であった気仙沼の漁船は漁獲不振に加え、オイルショックに直撃され、大きな赤字を抱え気仙沼に帰港する燃油も儘ならぬ状態であったが、気仙沼漁業者は南アに強い商社であるNICに燃油供給を依頼。要請を受けた東京本社より「当地石油会社より供給可能との連絡を受け、漁船に燃油を供給することができた。これで帰国できると準備をしている時に、当地取引先より、「ケープ沖にロブスターの新漁場が発見された。カニ漁船が興味あるなら出漁しないか」との話がでてきた。元々カニ漁法とロブスター漁法はカゴ漁で同じあることから操業は可能となる。漁業者としては、赤字の上塗りとなるかの瀬戸際の決断で出漁を決めた。いざ出漁に当たり、地元の籠も合わせ出来るだけ多くの籠を漁船に積載し、その出で立ちは海賊船のようであった。結果はロブスターの大漁であった。関係者は歓喜に沸き、地元新聞もまるで海賊船のようだと大きく報道した。短期間のロブスター漁で大きな水揚げをした漁業者はそれまでのカニ漁の赤字を帳消して余りある利益をあげることができ意気揚々として帰還することが出来た。

 その後、ロブスター漁は漁業規制の下、輸出組合が組成され日本向け輸出に繋がって行ったが、当然日本向はNICが独占、南ア産ロブスターの輸入第一号となった。オイルショック、カニ漁、漁業者、NIC、ロブスター新漁場と偶然と偶然が重なった結果で、うまく偶然がリンクしたものだと40余年まえの出来事を振り返りました。

夕食は、私が住んでいたライオンズ・ヘッド山を見上げるシーポイント地区の中華料理店でしたが、辺りは見覚えがある街並みで、少し歩いて見ると、眼前に40余年前に住んでいた高層アパートが聳えていました。一階のレストランも昔の名前のまま営業中でした。懐かしい限りでしばし感動を覚えました。

2016年のケープタウン・ウォーターフロント
2016年のケープタウン・ウォーターフロント

アパルトヘイト、ネルソン・マンデラ、融和、人口爆発、人種間対立、繁栄、サッカーワールドカップ、犯罪、エイズ、貧困、教育等々、繁栄の陰に数々の負の遺産を引きずる南アフリカ、変わったケープタウン、変わらぬケープタウン、時代の変遷をつらつら考えながら、翌日は再び賑やかなウォーター・フロントへ。テーブルマウンテンを眺め、シーフードレストランで美味しい特大のグリルド・ロブスターを頬張りながら、ケープタウンエピソードに想いを馳せていました。